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海からの秘伝

チルチンびと11号|2000年 冬

チルチンびと11号

 おふくろの味や郷土料理を含めた我が家の日常茶飯。それを勝手に「伝承食」と名付け、調査と記録に取り組んで二十年になります。きっかけは、近所のおばさんにいただいた煮豆でした。
 外国料理や高級珍味のグルメブームに憧れながらも、どこか乗り切れずにいた私です。それが、ふっくらと炊き上がった甘い煮豆に、甘いものに飢えていた幼い頃のなによりのご馳走だった煮豆を思い重ね、気付いたら調査を始めていたのです。ふっくら仕上げるために「海水濃度の塩水に一晩浸す」ということも、漁師町に育った私にとって驚きと納得の秘伝であり、強い動機になりました。
 この秘伝はどのように生まれ伝わったのでしょうか。実は、そのルーツは未だ不詳です。いろいろ調べて分かったのは、おばさんの家に代々伝えられている秘伝だ、ということだけでした。
 上水道の発達していなかった頃の海辺の町では、真水の出る井戸をもつのは富のある家に限られていました。かなりの家が共同井戸を利用していましたから、水はたいへん貴重です。当然、代用できるものは海水を使っていたと思われます。たとえば野菜を洗ったり、茹でたり、漬けたり。そんな条件のなかで偶然生まれた秘伝だったのではないでしょうか。
 塩水によって外皮と胚乳の膨潤が同時に進行し、皺が寄ったり破れたりが防げるのです。この理にかなった料理法を発見した先人に、脱帽せざるを得ません。
 脱帽もののもう一つに、引退した老漁師に教わった「おがみ」という料理があります。便利なクーラーボックスなどない時代、漁に出る時は、腐らないように酢を加えて炊いた飯(寿司めしではなく、酢めし)を持参します。船の上で捕れたばかりの魚を開き、海水で洗い、その酢めしを挟んで醤油を付けて食べたそうです。シンプルな材料で手間がかからず、片手で食べられ、そして美味。まるでいまのハンバーガーの漁師版です。
 名前の由来は、飯を挟んだ形が両手を合わせて拝んでいるように見えるからということでした。それだけでなく、航海の安全や豊漁の祈願を神仏に拝むことにも通じているように思います。
 現在の私たちは、この「おがみ」という料理を知りません。でもこの地方のハレの日によく作られる鰯や鱚の姿寿司に、その原形を見ることができます。


 冬らしい料理を一つ。郷土料理として脚光を浴びるには少し迫力不足ですが、当地の根強い人気料理に「にぐい」があります。漢字で表せれば「煮喰い」でしょうか。秋から冬にかけて収穫される根菜類を少し大きめの賽の目に切って、椎茸や地鶏と一緒に炊いたものです。
 汁を多くすれば実沢山の汁。煮詰まると煮染め。実沢山の汁が残れば翌日は煮染めとして再び食卓に上がるのです。忙しい生活のなかで、一回作ったものを最初は汁として、二回目は煮染めとして形を変えて出す。この合理性にもやはり脱帽です。
 私は長い間、この料理を作りませんでした。「にぐい」という料理名は、どうしても粗野に聞こえます。汁は汁、煮染めは煮染め、と区別して呼んでいました。しかし考えてみると汁であり煮染めでもあるのだから、こういう名前にならざるを得なかったのでしょう。


 古老たちに料理名の由来や調理法を尋ねると、異口同音に「そんなことを考えたり尋ねたりする暇なんて無かった」といいます。手軽をモットーとする庶民の味が、手のこんだ料理屋の料理に変化すると、きっちりした名前が付くのかもしれません。
 名前はともかく、寒い外から帰宅したとき、火鉢の上でことこと煮える「にぐい」の匂いは身体も心も温めてくれたものです。
 料理を調査し、レシピを記録するうちに、料理はそこに住む人々の生活や生き方を象徴しているという事実に気付きました。そして粗野だと嫌っていた「にぐい」という響きすら、今では好ましく思えるのです。